「広島に原爆」川越から傍受 通信社分室が政府に報告(1/2ページ)
2010年8月9日0時42分
杉山市平氏
武井武夫氏
終戦直前に広島へ投下された兵器の正体を、国内でいち早く「原子爆弾」と訳し、政府に報告したのは、埼玉県川越市で海外放送を傍受した通信社だった ――。戦後65年の今年、そんな裏面史を検証する調査が進んでいる。大本営は結局、しばらくは「新型爆弾」としか発表せず、放射能の脅威が知らされないま ま2次被爆の拡大につながったと指摘する専門家もいる。
「トルーマン(米)大統領が原子爆弾で広島を攻撃した旨発表した」
財団法人通信社史刊行会(現・新聞通信調査会)から1958年に発行された「通信社史」によると、こんな海外放送を傍受したのは、共同通信社や時事通信 社の前身だった同盟通信社の川越分室。45年8月7日午前1時半ごろだった。前日の広島の惨禍に関する重大情報で、日本語に訳され、直ちに東郷茂徳外相ら に伝達されたという。
しかし、この記述を検証できる史料は乏しい。川越市史には「同盟通信社が疎開して外国電波をキャッチしていた」とだけ記されている。
外電の傍受活動について調べている元共同通信記者の鳥居英晴氏(61)と、郷土史を探究する市内の作家龍神由美さん(52)が別々に検証作業を始めたと ころ、昨年から今年にかけて、市内の同じ「生き証人」にたどり着いた。分室の記者だった故・杉山市平氏の妻昭子(てるこ)さん(83)だ。
昭子さんは夫から生前、こう聞いていた。「今までにない爆弾が落ち、どうやって訳すかを考え、『原子爆弾』という名を付けた」。翻訳は、同僚の故・武井武夫記者との共同作業だったという。
昭子さんによると、分室は現在の市立博物館の場所で、当時の市立工業学校を使っていた。傍受にあたる逓信省の技術者や英文をタイプする日系人も出入りしていた。昭子さんは「知られていないけど大変な歴史なんです」と話す。
両記者の上司だった木下秀夫氏は、文芸春秋71年12月号への寄稿で、分室開設について「すべて極秘のうちに行われた」と記し、こう述懐している。 「トルーマン大統領の原爆投下声明も、ポツダム宣言も、日本の降伏受諾が先方に届いたことの確認も、その第一報はすべてここでキャッチされた」
東郷外相への伝達直後の8月7日午後、大本営は広島に投下された核兵器を「新型爆弾」と発表した。軍が「原子爆弾」と認め、被爆地の残留放射能の危険性を公表したのは同14日だったとされる。
核開発の歴史に詳しい山崎正勝・東工大名誉教授(科学史)は、通信社からの情報が生かされなかったことも、2次被爆の拡大の一因とみる。「日本で戦時中 にウランの軍事利用を研究していた専門家は、残留放射能の危険性を知っていたが、軍や政府から知らされずに原爆投下直後の広島、長崎に入り、命を失った人 たちがたくさんいる」
鳥居氏は、新聞通信調査会の会報「メディア展望」で、川越分室に関する連載を始める予定という。(村野英一)
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